センスは言語化できるか——「見る」から始まる、子どもの育ち方の話

サッカー

サッカーの指導をしていると、よく「あの子はセンスがあるから」という言葉で片付けられる場面に出会う。

たしかにそうなのだろう。放っておいても勝手にうまくなっていく子はいる。でも自分がずっと気になっているのは、その「センス」の中身だ。何を見て、何を判断して、何を選んでいるから、その子は勝手にうまくなっていくのか。そこを言葉にしないまま「センスだから」で終わらせてしまうと、センスのない子をセンスある子に変える方法は、いつまでも見つからないままになる。

自分が指導の中で本当にやりたいのは、勝手にうまくなる子を眺めることではなく、そうではない子を、自分で学習できる選手に変えていくことだ。今日はその過程で自分の中に積み上がってきた考えを、一度整理して書いておきたい。

「勝手にうまくなる子」がやっていること

センスのある子を観察していると、あるループが自然に回っていることに気づく。

見えるようになる → 見えたことで良いプレーができる → 良い結果を経験する → もっと見たい、もっと判断したいと思うようになる → 見ることが、その子の中で当たり前のものになっていく。

このループが、外からの手助けなしに、勝手に回り始めてしまうのが「センスのある子」なのだと思う。だからこそ指導者側も、その子に対して特別なことをしていないのに結果が出るので、「センスだから」という説明で満足してしまう。

問題は、このループが自然には回らない子がほとんどだということだ。

見えない子に、見えるようにする

低学年の子どもたちの多くは、まだピッチの中で「見る」ということ自体ができない。ボールを持ったら、目の前しか見えていない。これは能力が低いということではなく、まだそこに至っていないだけだ。

ここで参考にしているのが、ヴィゴツキーという心理学者が示した「最近接発達領域」という考え方だ。人には、一人でできることと、誰かの支援があればできることの間に、ある領域がある。その領域に働きかけることで、一人ではできなかったことが、やがて自分一人でもできるようになっていく。

つまり指導者の役割は、「見えるようになる課題」を用意することだ。いきなり試合の中で「見なさい」と言っても意味がない。負荷を落とし、視野に入れるべき対象を絞り、少しずつ「見える」範囲を広げていく。教え込むというより、一緒に見る時間を重ねて、少しずつ手を離していくイメージに近い。

見えたら、良いことが起きる。だから、また見たくなる

ここからが、自分の中で最近ようやく言葉になった部分だ。

課題設定によって子どもが「見える」ようになると、その先で何が起きるか。見えたことで、良い判断ができる。良い判断ができると、良いプレーにつながる。良いプレーは、その子にとって成功体験になる。

そしてこの成功体験が、次の「見たい」という気持ちを生む。見たら良いことが起きる、ということを一度でも実感すると、子どもは自分から見ようとし始める。この段階まで来ると、「見ること」はもう指導者に教え込まれたものではなく、その子自身の中に必須のものとして根を張っている。

支援によって育った「見る・判断する」という力が、成功体験を経て、その子自身の意志、つまり主体性に変わっていく。この順番が、今のところ一番しっくりきている整理だ。主体性は最初にあるものではなく、育っていく過程の先に生まれてくるものなのだと思う。

そして一度主体性として根づくと、そこからまた新しい「見る・判断する」が生まれていく。直線ではなく、螺旋のように少しずつ半径を広げながら回っていくイメージだ。

コーチという環境をどう設計するか

「いろんな人に教えてもらったらいい」という考え方を否定するつもりはない。多様な他者との関わりが、子どもの成長を刺激することは間違いない。

ただ、そこには設計がない。誰と出会い、どんな支援を受け、どのタイミングで成功体験が起きるかが、すべて偶然に委ねられてしまう。ループが回る子もいれば、回らない子もいて、それが「その子の資質」として片付けられてしまう。

自分がコーチとして意識したいのは、この螺旋がどれくらいの速さで回るか、そして一周ごとにどれくらい半径が広がるか、その両方をできるだけ設計の対象にすることだ。同じ課題を繰り返させるのではなく、成功体験のたびに、次に見るべき対象の難易度や範囲を少しずつ更新していく。

センスという言葉で片付けられてきたものを、こうして一つずつ言葉にしていく作業を、これからも続けていきたい。

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