シャッター付きの駐車場に車を入れたとき、助手席の長男に「こっちから降りれる?」と聞かれた。助手席側のドアのすぐ横は壁で、開ける隙間がほとんどない。見ればわかる状況だと思う。それでも長男は、まず僕に聞いた。
最近、病院でも似たことがあった。先生に外で待つように言われても、長男はいつまでも座ったままだった。靴下を脱いで待つように言われたときは、靴だけ脱いで待っていた。言われたことの半分くらいは届いているけれど、その先にある「だから、次はこうなる」が、すっぽり抜けている感じがする。
サッカーで見えていた課題が、日常にもあった
サッカーのほうでは、長男は技術的にだいぶ上がってきた。左右のフェイント、パス、ドリブル。状況を見て選べる道具が、少しずつ増えてきたと思う。
その一方で、今はっきり課題として見えてきたのが、自信のなさと予測のなさだ。相手がどう動くか、次にボールがどこへ来るか。その一歩先の想像がないまま動くので、判断が遅れる。判断が遅れるから、プレーに迷いが出る。迷いがあるから、自信も持ちきれない。この二つは、たぶん別々の課題ではなくて、根っこでつながっている気がする。
そして助手席や病院での様子を見ていると、これはサッカーだけの話ではないんだと思う。ピッチの上で急に予測できるようになる、というものではない。日常で想像力が巡っていないなら、グラウンドでも同じことが起きるのは自然なことなんだと思う。
指示を聞いていないのではなく、聞かなくても困らなかった
先回りしてきたのは、親のほうだった
長男の様子を見ていて、正直、今までの育て方を省みざるを得なかった。
降りる側のドアを確かめるのも、先生の話を聞いて次の動きを考えるのも、本来は本人がやることだと思う。でも振り返ると、そのあたりを知らず知らずのうちに親が引き受けてきた場面が、思っていた以上に多かった。先生の話を親が聞いて、親が「ほら、外で待つよ」と動かす。本人は、言われてから動けばいい。
そういう積み重ねの中では、自分で先を読む必要がそもそもない。考えないことが、いつの間にか当たり前になっていたんだと思う。長男が予測しないのは、能力の問題というより、予測しなくても困らない環境を、僕たちがつくってきたからなのかもしれない。
過去は戻らないので
とはいえ、過去は戻らない。気づいた今から、どう変えていくかを考えるしかないと思う。
今日は、あえて指示をしなかった
そこで今日、病院では先回りして指示を出すのをやめてみた。代わりに、「先生、なんて言ってた?」と長男に問い返した。
先生は気を遣って、もう一度説明してくださった。ありがたかったし、少し申し訳なくもあった。ただ、その場面ひとつとっても、これまでなら僕が代わりに聞いて、代わりに動かしていたところだと思う。そこを一度、本人に返してみる。たったそれだけのことが、思っていたより難しかった。
指示を出すほうが早いし、ラクだ。待っている間の気まずさもない。でも、その早さとラクさの分だけ、長男が考える機会を奪ってきたんだと思う。
責任は、早いうちに渡していく
責任は、与えていかないと育たない。与えられないままでいると、考えないことが当たり前になる。この数日で、それを痛感した。
早いうちに責任を渡していくこと。たぶんそれが、親の役目なんだと思う。失敗させないように先回りするのではなく、少し困る経験も含めて、本人に渡していく。ドアを開けて、壁があることに自分で気づく。先生の話を聞き逃して、自分で聞き直す。そういう小さな「困った」の中でしか、予測する力は育たない気がする。
サッカーの自信も、きっと同じところにつながっている。自分で読んで、自分で選んで、うまくいった経験が積み重なって、ようやく自信になるんだと思う。
すぐに変わるとは思っていない。僕自身、つい口を出してしまう癖は一朝一夕には抜けないだろうし、待つことに慣れるまで、しばらくかかる気がする。それでも、次に助手席から長男が何か聞いてきたら、答える前に一拍置いてみようと思う。


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